横山 寅一郎 |
”世に処するの途は一に好意の交換にある” ※処世訓として残されている 郷土大村の そして長崎のため 長年貢献した人物
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| 西暦 | 和暦 | 満年齢 | ||
| 1860年 | 万延元年 | 横山雄左衛門氏繁の二男として大村の下久原に生まれる |
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大村藩校 五教館で学ぶ
↓ 東京の岡千仞(おかせんじん)という学者のもとで学ぶ |
◎岡千仞(おかせんじん) 仙台出身の学者。江戸の昌 平黌で学び、帰藩後は、藩校 の教授となり、明治13年から は 漢学塾 綏猷堂 (すいゆう どう)を主宰する。綏猷堂で学 んだ人は3千人に及ぶと言わ れている。 |
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1884年 |
明治17年 | 25歳 | 私立大村中学校(現大村高校の前身)を創立 ↓ 校主として、11年間つとめる |
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| 1893年 | 明治26年 | 34歳 | 長崎県県議会副議長に就任 |
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| 1895年 | 明治28年 | 36歳 | 第2代 長崎市長に就任 ↓ その後、3代目・4代目まで3期つとめる。 |
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| 1897年 | 明治30年 | 38歳 | 第2次長崎港湾改修工事の実施 | ◎第2次長崎港湾改修工事 明治28年10月に市議会議員 ・隣港5村長などにより同盟会 を結成し、改良工事必要を各 所に働きかけた。明治30年に 九州鉄道が開通した際用地 取得のため長崎港の埋め立 てを願い出ている。そういった 背景のもとに明治30年から5 ヶ年の計画で工事が実施され た。この工事による埋め立て が、現在の長崎の地形の骨 格になっている。 |
| 1907年 | 明治40年 | 48歳 | 大村家31代純雄と大村湾水産養殖所を設立 三重県から見瀬辰平を招き母貝の確保から事業を始める。 |
◎見瀬辰平
真円真珠生産の原理を発見し た人。三重県で、1902年から 研究を始め、1904年に真珠を 得たという。彼の方法は「誘導 式」と呼ばれたが、面倒なた め、現在真珠の生産には使わ れていない。1907年、 大村水 産養殖所に技術係長として着 任した。 |
| 1916年 | 大正5年 | 57歳 | 勲三等瑞宝章を賜る | ◎勲三等瑞宝章 公務等に長年にわたり従事し 、成績を挙げた方に授与され る。寅一郎の授与は当時では 破格と言われていた。 |
| 1923年 | 大正12年 | 64歳 | 長崎県師範学校を大村へ移設 特旨をもって従五位の授与 5月 東京で死去 |
◎長崎県師範学校 国民学校教員を養成する官 立の教育機関。長崎大学教 育学部の前身。 昭和9年に師範学校は長崎に 移転し、入れ替わりに女子師 範学校が移転してきた。 |
大村湾の真珠養殖をはじめ、各種産業を盛んにし、長崎県・郷土大村のため力を注ぎました。 久原一丁目にお墓があります。
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※大村市の文化財より抜粋