天正遣欧少年使節団 |
日本人として 初めてヨーロッパを 公式訪問した少年達 日本とヨーロッパを結んだ原点 |
◎天正遣欧少年使節団の軌跡
| 西暦 | 和暦 | 出来事 | 備考 |
| 1549年 | 天文18年 | 8月15日フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。 キリスト教の伝来 |
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| 1563年 | 永禄6年 | 大村の領主 大村純忠 洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となる
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1576年
1578年 |
天正4年
天正6年 |
有馬(長崎県)の大名 有馬義貞キリスト信者となる
豊後(大分県)の大名 大友義鎮(宋麟)キリスト信者となる |
◎有馬義貞(ありまよしさだ) 戦国大名。島原半島を中心に して肥前(長崎県・佐賀県)の 各地方を治めていたが、義貞 の時にほとんど領地が奪われ る。大村純忠の兄。 ◎大友義鎮(おおともよししげ) 戦国大名。首府を府内(今の 大分市)とした広い領地をもっ ていた。晩年には宋麟と呼ば れ、欲のない武将と称されて いた。(前半生は領土拡大に 積極的だった) |
| 1579年 | 天正8年 | アレッサンドロバリニャーノ神父が、ローマから派遣される ↓ 豊後を経て京都に向かい、織田信長に謁見する 信長は、バリニャーノを安土に招き色々のもてなしをした。 |
◎アレッサンドロバリニャーノ神父 イタリアのイエズス会宣教師。 日本におけるキリスト教の布 教責任者。 |
| 1580年 | 天正9年 | バリニャーノ神父は、有馬と大村の大名と共にローマへの使節の計画を行う (今後の日本の教会の発展と、日本人の優れた文化をヨーロッパに紹介するため) |
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| 1582年 | 天正10年 | 2月20日 ローマへ向け使節一行は長崎港を出発 《使節団》 大村純忠と有馬晴信の使者 千々石ミゲル 大友宋麟の使者 伊東マンショ 同伴者として 中浦ジュリアン 原マルチノ の13歳前後の少年4人。 その他、2名の青年と、イルマン修道士、引率者としてバリニャーノ神父・メスキータ神父が同伴した。 |
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| 1584年 | 天正12年 | 8月 ポルトガルのリスボンに到着 10月 マドリードに入り、スペイン国王フェリペ2世に謁見 |
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1585年
1586年
1588年 |
天正13年
天正14年
天正16年 |
3月 ローマに到着。ローマ法王グレゴリオ13世に謁見
↓ その後、少年たちは北イタリアを旅行し至るところで大歓迎を受け、ヨーロッパの文化・新しい知識を大いに学ぶ。 リスボンを出発し、帰途につく。
7月 マカオに到着。 秀吉が出した禁教令の為、2年間とどまる。
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| 1590年 | 天正18年 | 7月 使節一行、長崎に帰港(出発から8年5ヶ月) | |
| 1591年 | 天正19年 | 3月 聚楽第で関白秀吉に謁見 家臣への誘いを受けるが、断り、イエズス会へ入会
↓ 江戸時代初等 長崎におけるキリスト教隆盛期に大いに 活躍する。 |
◎聚楽第(じゅらくだい) 関白に就任した秀吉の邸宅。 京都の内野(平城京の大内裏 跡、現在の京都市上京区)に 建設した堀を巡らした大邸宅 徳川家康との謁見もここで行 われた。 |
1597年
1608年
1612年 1614年 1633年 |
慶長6年
慶長13年
慶長17年 慶長19年 元和10年 |
その後、禁教令が出され、
千々石ミゲル イエズス会を脱退し、棄教
ミゲル以外の3名司祭の位を受ける
伊東マンショ 長崎のコレジヨで病死 原マルチノ マカオに追放され、1629年、その地で死亡 中浦ジュリアン 日本に潜伏し、布教を続けるが、捕まり 長崎の西坂で穴づりの刑を受ける
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◎禁教令 キリシタン達の数とキリシタン 大名の力を知り、天正15年( 1587)禁教令を発布し、大村 にも、慶長7年(1602)出され る。
◎コレジヨ キリシタン学校。文学、音楽、 基礎教育などと、キリスト教哲 学などが教授され、司祭への 準備をなすイエズス会の高等 教育機関。中等教育機関は、 セミナリヨという。 |
彼らが、ヨーロッパから持ち帰った知識や品物は、日本に多くの影響を与えた。 特に、活字印刷機で印刷した書物はキリシタン版と言われ、長崎・天草で出版された。
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※大村史の文化財より抜粋