| 西暦 | 和暦 | 満年齢 | ||
| 1838年 | 天保9年 | 肥前彼杵郡大村 代々藩に仕える漢方医の家系に生まれる |
◎長与家 専斎から数えて5代前に代 々医をもって業とするように なった。 (藩主 純鎮の時から) |
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1841年
1846年 |
天保12年
弘化3年
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3歳
8歳 |
父 中庵急逝(35歳) ↓ 祖父俊達の嫡子となる。 |
◎長与俊達 専斎の祖父。 藩の御番医として出仕し、 藩校五教館の学監も勤め る。周囲の批判を浴びなが らも、蘭方医を出島で学ん だ。そのことにより一時は 藩主より職を解かれたが、 藩主の子息の病を治したこ とから再び藩に出仕した。 大村の地で天然痘が蔓延 した際に、いち早く牛痘法を 用い、天然痘治療に尽力し た。 |
1849年 1854年 |
嘉永2年 安政元年 |
11歳 16歳 |
大村藩藩校 五教館に入学 五教館卒業 ↓ 大阪に赴き、緒方洪庵の適塾に入学 |
◎大村藩藩校 五教館 西肥前の諸藩に先駆けて いち早く設けられた藩校。 最初は集義館と言い、それ を整備発展させ生まれた。 長崎県立大村高等学校の 前身。その他の出身者に、 長岡半太郎、楠本正隆、等 がいる。 |
| 1855年 | 安政2年 | 17歳 | 祖父 俊達病没。 家督を継ぐ |
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| 1858年 | 安政5年 | 20歳 | 適塾塾頭となる。(福沢諭吉の後任として塾頭になる。) | ◎適塾 蘭学者であり、医師であり 教育者でも知られる緒方洪 庵(おがたこうあん)が自宅 に塾を興した事に始まる。 塾生には、福沢諭吉・大村 益次郎ら近代日本の建設 に活躍した人物が多かった |
1861年
1864年 |
文久元年
元治元年 |
23歳
26歳 |
長崎に赴き、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める
藩命により大村に帰る。大村藩の侍医となる。 |
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| 1868年 | 慶応4年 | 30歳 | 長崎医学校の学頭となる | |
| 1871年 | 明治4年 | 33歳 | 岩倉遣欧使節団の一員として渡欧 | ◎岩倉遣欧使節団
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1873年
1874年
1875年 |
明治6年
明治7年
明治8年 |
35歳
36歳
37歳 |
文部省医務局長に就任
東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務 牛痘種継所を東京府下に設置
内部省衛生局の初代衛生局長に就任 |
◎衛生 医制を起草した際に、 hygieneの訳語として”衛生 ”という語を採用し、衛生思 想の普及に尽力した。 ◎東京医学校 専斎が校長時代には、北 里柴三郎(ペスト菌を発見 する)もおり、北里の留学の 期限延長などの支援をして いる。 |
1877年
1879年 |
明治10年
明治12年 |
39歳
41歳 |
中国でコレラが流行し、それが日本各地に飛び火する ↓ コレラ予防心得を草し、府県に通達させる。 コレラ対策を機に中央衛生会発足。委員となる。
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◎中央衛生会 コレラの大流行に際し、検 疫停船等のことを審議する ため、臨時に日本人及び外 国人を含めた医師を内務省 に招集し会議を開いたのが 始まり。衛生行政の万全を はかろうとした。専斎はこの 生みの親ともいうべき立場 だった。 |
| 1883年 | 明治16年 | 45歳 | 大日本私立衛生会を発足、副会頭となる。 |
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| 1886年 | 明治19年 | 48歳 | 内務省衛生局長のまま元老院議員を兼任 |
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| 1889年 | 明治22年 | 51歳 | 医術開業試験委員長となる 大日本帝国憲法発布記念章を授与される |
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| 1890年 | 明治23年 | 52歳 | 中央衛生会会長を兼任 貴族院議員となる。 |
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1895年
1901年 1902年 |
明治28年
明治34年 明治35年 |
57歳
63歳 64歳 |
臨時検疫局長となる。 勲二等に叙し、瑞宝章を授けられる。 大日本私立衛生会会頭となる。 体調不良のため、会頭を辞任 勲一等に叙し、瑞宝章を授けられる どうにか夏を越したが、命のつきることを悟った専斎は家族一同を枕頭に集めた。 9月8日の朝方に永眠。 |
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専斎が生まれ、育った家は、『宜雨宜晴亭』(ぎうぎせいてい)と呼ばれ、現在、片町から久原に一部を 移され残っている。 また、専斎の胸像が、大村市立病院の前庭に飾られている |
※医療福祉の祖 長与専斎 より抜粋