朝永 三十郎 |
明晰・謹厳・清潔・無欲 の君子の風格と古武士の魂をもつ 自己に厳しく真面目で清く 正しい人格者であった。 昭和33年玉川大学刊「朝永先生の思い出」より抜粋
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| 西暦 | 和暦 | 満年齢 | ||
| 1871年 | 明治4年 | 大村藩士 朝永甚次郎の三男として生まれる | ◎朝永甚次郎 三十郎の父。朝永一家は秀 才の学者揃いで、甚次郎も 幕末に塾を開いて村の子弟 を教え、明治の学制改革で 初代繁谷学校長として初等 教育に功があった。 |
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1883年 |
明治16年 | 12歳 | 母 ヤス死去 |
◎三十郎の子供時代 長年、病の母が床ずれで痛 みを訴えると、幼い膝の上に 上げて抱き涙ぐましいほどの 看護に当たったと伝えられて いる。 |
| 1885年 | 明治18年 | 14歳 | 私立大村中学校に進学 ↓ 二年修了と共に上京、共立中学や私塾で英語を学び、のちに東京英語学校に転じる ↓ 三宅雪嶺(みあけせつれい)・志賀重昴(しがしげたか)の教えを受ける。 |
◎三宅雪嶺(みあけせつれい) 近代日本を代表するジャー ナリスト。社会問題に強い関 心を持ち「自由新聞」記者と して「秩父事件」を視察、「足 尾鉱毒事件」に関わっている ◎志賀重昴(しがしげたか) 世界的地理学者で、「三河 男児」「日本風景論」などを 著した。幕末に岡崎藩士の 子として生まれ、札幌農学 校を卒業後、海軍練習船に 便乗して南洋諸島を巡航。 木曽川の流れを「日本ライン 」と紹介したことで有名。 |
| 1889年 | 明治22年 | 19歳 | 第一高等中学校入学 父 甚次郎死去 兄弟は互いに助け合って、早く職に就いたものが順次弟 の学資を出して進学させたという。 |
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| 1895年 | 明治28年 | 25歳 | 東京帝国大学文科大学に進学 (かたわら正則英語学校教師を勤め学資を補う) |
※郷土の名望家(藩医)の養 子に望まれて医学研究の要 求を受けたことに対し、自己の 性格と天分を知り養子を断っ て復籍し文科大学入学に踏み 切った。 |
| 1898年 | 明治31年 | 28歳 | 大学卒業後、京都の真宗大学(現大谷大学)教授となる。 (暁烏敏(あけがらすはや)などに教える) |
◎暁烏敏(あけがらすはや) 「十億の人に十億の母あら むも わが母にまさる母あり なむや」この母を思う歌を作 った近代的な哲学思想を広 め、日本の思想界に大きな 足跡をのこした人物。 |
1902年
1906年 |
明治35年
明治39年 |
32歳
36歳 |
女流歌人である秀子夫人と結婚
長男 振一郎誕生
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◎朝永振一郎 三十郎の長男。 物理学者でノーベル物理学 賞の三人の共同受賞者の一 人。日本人では湯川秀樹博 士に次いで二人目。西の湯 川・東の朝永と言われてい た。 |
1907年
1909年
1913年 |
明治40年
明治42年
大正2年 |
37歳
39歳
43歳 |
京都大学助教授となる ↓ 西洋哲学史研究のためドイツ・フランス・イギリスに留学
帰国後、京都大学教授・文学博士となる |
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| 1916年 | 大正5年 | 46歳 | 「近世における我の自覚史」を出版 |
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| 1931年 | 昭和6年 | 61歳 | 京都大学を停年退職、名誉教授となる。 大谷大学教授として、東京・広島両文理科大学に出講 |
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1947年
1951年 |
昭和22年
昭和26年 |
77歳
80歳 |
大谷大学を辞して、もっぱら著述につとめる
9月18日 死去 |
若い頃は、「自分は名前の通り三十まで生きられるか」と案じたほどの弱い体でありながら、よく養生につとめ 天寿を全うした。夫人をたいへん大切にし、門弟に対しても慈愛深く、親友門下の方々の多くの思慕の言葉が 残されている。 東大谷の墓地に葬られている。 |
※郷土の先覚者たち ー長崎県人物伝ーより抜粋