| 西暦 | 和暦 | 満年齢 | ||
| 1865年 | 慶応元年 | 大村藩士 長岡治三郎の長男として生まれる | ◎長岡治三郎 半太郎の父。 幕末大村藩血盟勤皇三十 七士の一人として、主命を 受けて京都の情勢を探り、 戊辰の役では官軍先鋒の 軍艦となり、江戸・会津で 功績を立てた後明治政府 に仕え、岩倉具視の欧米 視察にも同行した。
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| 1875年 | 明治8年
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10歳 | 上京し、本郷湯島小学校に入学
大阪英語学校に入学 ↓廃校となったため 長与専斎の家に書生として寄寓し、共立学校から大学予備門(旧一高)に学ぶ |
◎小学校時代のエピソード 小学校の頃の事を聞かれ たときに、「小学校のことは 御免こうむるナ。僕は小学 校では落第したんだ。別に 欠席をしたわけでも、いた ずらをしたわけでもなかった んだが、何をやっているの かさっぱりわからない。とに かく落第したことは事実だ。 ・・・いや、小学校のことは 御免こうむる。」と笑いなが ら話している。 |
| 1887年 | 明治20年 | 22歳 | 東京大学理学部物理学科卒業 ↓ 大学院に進み、助教授となる |
◎大学院時代 数々の論文を発表し、欧米 の学会を賑わし、世界的注 目を受ける。 |
| 1893年 | 明治26年 | 28歳 | 理学博士の学位を得る(日本で第27番目) ドイツ留学 |
◎ドイツ留学 ヘルムホルツ・プランク・フォックス・シュワルツ等に数理物理学を学ぶ。 |
| 1896年 | 明治29年 | 31歳 | ドイツから帰国後、東京帝国大学物理学教室の教授となる | |
| 1903年 | 明治36年 | 38歳 | 長岡原子模型を発表 | ◎長岡原子模型 マクスウェルの『土星の輪の運動』に関する研究からヒントを得て、世界で先に提案した原子モデル。土星型原子模型ともいわれ、日本よりも海外で注目を浴びた。 |
| 1906年 | 明治39年 | 41歳 | 学士院会員 |
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| 1917年 | 大正6年 | 52歳 | 理化学研究所の物理部長就任 |
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| 1925年 | 大正14年 | 60歳 | ケムブリッジ大学から名誉理学博士を贈られる(日本人として初めて) | |
| 1931年 | 昭和6年 | 66歳 | 大阪帝大の初代総長となる (全国から俊英を引き抜き、湯川秀樹も大阪帝大の助教授となっている。) |
◎湯川秀樹 1949年にノーベル物理学 賞を受賞。(日本人最初の ノーベル賞受賞) 京都大学の学生時代、半 太郎の講演を聞いて「先生 の60歳とは思えない若々し い情熱と、世界的大学者 にふさわしい見識の高さに 敬服し、非常な刺激を受け た。」と述べている。
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| 1937年 | 昭和12年 | 72歳 | 第1回文化勲章受賞 |
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| 1939年 | 昭和14年 | 75歳 | 帝国学士院 院長に就任(昭和23年まで務める) 日本学術振興会理事長となる |
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| 1950年 | 昭和25年 | 86歳 | 12月11日 86歳で永眠。正三位勲一等を贈られた |
| ・1970年 第14回国際天文学連合[IAU]総会で、月の裏側のクレーターに各国から推薦された名前を元に、 科学者の名前が付けられた。 長岡半太郎の名も北緯19.4 東経154.0 のところに付けられている。 現在、久原の地に半太郎の屋敷跡が残されている。(今も当時の古井戸が残っている)
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※郷土の先覚者たち ー長崎県人物伝ー・長岡半太郎 原子力時代の曙 より抜粋