深沢 義太夫

  

  捕鯨の先駆者

   大村に豊かな生活をもたらし、

        大村地方の産業経済史上に

           さんぜんと輝いている

      

西暦 和暦 満年齢    
1583年 天正11年 大村領波佐見村 名門の郷士の家に生まれる  

1615年

慶長の末 32歳頃

武者修行中の紀州の国で捕鯨を習得する

 ↓新しい漁法を取得し故郷の土を踏む

◎捕鯨法

 海流に乗って沿岸に近づい

 てくる鯨を銛にて突き取ると

 いう突取法。近世以前に伊

 勢湾沿岸の漁村で始まった

 と言われている。

 

1625年 寛永2年 42歳

大村藩庁に「鯨捕り願書」を出し、許しを得て鯨組を編成する

 ↓

大村を総基地として、崎戸・松島・平島・蠣の浦と操業を始める

 ↓

年間数百頭の鯨を捕り、大金持ちとなる

 このころは、次々と大船を建造し、基地を増やして遠海へと漁場を拡張する。(当時の記録によると、壱岐・生月・五島・江の浦などに及び、天明の頃の文書によると、福岡地方の漁場権まで掌握していた。)

 
     

藩主 純長より升印の紋をいただき、また深沢の姓を賜る。

 深沢義太夫となる。

◎大村藩の財政

 この頃、納める運上金は、、

 何十万両にも及び、大村藩

 庁の財政を左右したし、藩庁

 の財政が苦しくなると何度も

 融通していた。

1652年頃 承応元年 69歳

天台宗松林山大乗院円融寺の建立の支援

 (大村草場小路に小判2800両を投じる)

白龍山長安寺に、本堂石塀・鐘を寄進

大村藩に最新式の鉄砲・軍用金・江戸藩邸など寄贈献上

 
1661年 寛文元年 78歳

野岳村の実態調査

8月 

 藩事業として野岳村(八本松)への大堤(ダム)建設着工

 (経費は義太夫が全額献上)

◎大堤の築造

 もともと、郡地方(竹松・福重

 ・松原)から江串村・千綿村・

 彼杵村・川棚村地方は、地

 勢が急で大きな水流がない

 ため天災の機会が多く雨が

 降れば川はあふれ、日照り

 が続けばすぐに田は枯渇し

 た。そのため水田開拓が進

 まなかった。そこで義太夫は

 その実態を調査し、最良の

 救済方法として大堤の築造

 を行った。

1663年 寛文3年 80歳

3月3日 大堤完成。落成式が行われる。

 

3月17日 大堤を見てまもなく、死去 

◎大堤

 周囲4Km、容量140万トン、

 現在推定の利用耕作面積は

 約1万アールと言われる。築

 造以来、干害や水害も知ら

 ず農民は豊かな生活を続け

 ることが出来た。

その後、代々の義太夫は初代の志を継ぎ、赤仁田堤・本倉堤・鹿の丸堤・三井木場堤・蕪堤など多くの事業につくし

川棚小串方面までの開発に奉仕したと伝えられている。

義太夫のお墓は、大村駅裏の白龍山長安寺の一角にある。

                                     

 また、野岳湖には義太夫を記念して記念館・資料館が建てられている。

               

※郷土の先覚者たち ー長崎県人物伝ーより抜粋