千葉 卜枕 |
”放虎原開拓の父” 大村市民の 生産の場と豊かな生活に つながる基礎を作った |
| 西暦 | 和暦 | ||
肥前小城の城主であった千葉氏の子孫として生まれる 飯笹平六左衛門胤重(いいざさへいろくざえもんたねしげ)といい、隠居後、卜枕(ぼくちん)と号した。 |
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1664年 |
寛文4年 | 大村の放虎原に松屋敷(現久田氏宅)を構える 藩主 大村純長より、放虎原の内銭壺(今の陸上自衛隊大村駐屯地付近)〜旧聖宝寺(現在の原口町)までの原野25町(約25ヘクタール)35石の領地を賜る |
◎放虎原(ほうこばる) 地名。この一帯は江戸時代 の初期までは、およそ耕作で きるような田畑はなく、一面の 原野が広がっていた。当時、 この一帯は虎を放つのにも十 分な原野という意味を込めて この名が付けられた。
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※放虎原開拓の開始 ・水路の完成 放虎原の北部を流れる郡川から水を分岐し、水路によって水を 確保した。実に郡川の分岐点より3.5キロに及ぶ長さだった。 ・杉と櫨(はぜ)の植え付け 数千本に及び植え付けられた。杉は建築用材として、櫨はその 実が当時の必需品であったロウソクの原料となることから下級武 士たちにとって良い現金収入となった。 ・楮(こうぞ)の栽培 楮は和紙の原料である。当時紙はたいへん貴重な品であった。 水路の水を利用し、中国地方から紙漉の技術者を呼び寄せこの 一帯に紙漉の事業をもおこした。
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◎水路 この一帯は、自然の雨水を溜 めようにも扇状地の礫層のた めすぐに水が地中に引いてい た。また、井戸からの地下水 も扇状地の関係から地下深く 伏流し汲み上げは至難の業 であった。 |
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| 1665年 | 寛文5年 | ※長崎街道の整備 それまでの街道は、宮小路の昊天宮を少し過ぎたあたりからや や海手に下り、道路も狭く曲折していた。そのため現在の原口 から松並間の街道の整備に着手し、現在のほぼ国道34号線の 位置に作り替え道幅も広くした。 このときに、現在でも地名として残る「小曲」「大曲」というカーブ した道も造られた。 ・桜・桃・杉の植え付け、沿道での馬市の開催 江戸時代末期の記録である『郷村記』には、当時で120本の桜 が植わっていると記録されている。 また、馬市の際には通行人の邪魔になることを考え、道を二重 にしていた。
・松並木の補植 16世紀初めに大村領主大村純伊が、現在の松並1丁目〜竹松 宮小路の昊天宮に至るまで植えた松並木が、約150年経過して 減少していた。その補植を行い昔のような立派な松並木道にし た。 |
◎長崎街道 江戸時代、長崎はただ一つ 海外に開かれた港であり、文 化・物を取り入れる唯一の窓 口だった。そのため全国各地 から新しい文化を求め人が訪 れた。その往来でにぎわった のが、小倉(福岡県北九州市 )と長崎とを結ぶ長崎街道で あった。 ◎現在の地名 桜馬場…卜枕が作った桜並 木の二重馬場に由 来している。 松 並…その名の通り、純伊 が植え、卜枕が補 植した松並木に由 来している。 |
| 大砲五門を鋳造し、大村藩に献上する | ◎砲術家としての一面 開拓に着手する前は、軍書を 書き写す役などを務め、兵法 家として大村藩に仕えていた。 |
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| 1666年 | 寛文6年 | 祇園社(現在の八坂神社)の建立 開拓地の鎮守の神社として遷した |
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| 1677年 | 延宝5年 | 薬師寺種満(長崎で砲術師範を務めていた)に入門し自覚流砲術を学ぶ。 ↓その後 自宅裏に大砲の射場を設けて千葉流砲術を起こす |
◎千葉流砲術 大砲隊一組を組織し、その家 来たちには、自らが開拓した 放虎原の畑を分け与えている 。また、この千葉流砲術は、 のちに淵山流砲術に受け継 がれ大村藩砲術の基礎とな る。 |
| 1701年 | 元禄14年 | 放虎原が新村として大村藩にとりたてられる (開拓に着手して約40年が経過している) |
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| 1707年 | 宝永4年 | 死去(年齢不明) |
卜枕の墓所は、桜馬場の共同墓地の中に、妻 飯崎鹿の墓碑と並んで、あたかも放虎原をいつまでも見守るように建てられている。
戒名の冒頭には放虎原の開拓の父らしく「原」の一文字が付けられている。
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※大村史の文化財・ひとづくり風土記より抜粋